ガストンとの対話 Vol.77
ガストンさん、昨日読了した小説の余韻が残っています。「狂気」について考えていました。物語で主人公たちのひたむきに生きる姿が描かれていると同時に、その時代を取り巻いていた「狂気」が対照的に描写されています。まさしく狂気という言葉でしか表現できないものでした。
「いつの時代でも戦争は、すなわち狂気だ」
特攻隊のゼロ戦に積まれていた爆弾は、投下できない構造になっていたとのこと。つまり自爆するしかないのですね。そうしたことを決定した司令部の狂気は言葉にできないほど恐ろしい。兵士の命をまるでゲームのように消費しています。特攻をイスラム原理主義者の自爆テロと同じだと言う人がいます。なぜなら、本人が志願して特攻に行ったからだと。しかしそれが拒否できない「狂気」による実質的な命令であったことが、この小説を読んでよくわかりました。
「このような戦争という組織的な同族殺人を行うのは、人間という動物しか持たない狂気だと思っているかもしれないな。だが最近の動物行動学の論文を読めば、それが動物に共通しているものだと理解できる。地球上での生物の進化の過程において、実はその狂気は内在化されたものなのだよ」
全ての人間の中に、その狂気の因子が存在するということですね?
「人によってその大きさは違うかもしれない。だが、誰にも確実に存在する。幼いころに小さな昆虫を意味もなく殺した経験はないか? 悪気などない。遊びの延長に過ぎない行為だろう。だが客観的に見れば、大量虐殺のようなことを夢中でやっていることがある」
えぇ、子供の頃にそういった経験があります。生命の平等性を考えると、とても恐ろしい行為だったと思います。人間の命もアリの命も同じですから。
「普通の人間は、それを潜在意識の奥に追いやって見せることはなくなる。まれに猟奇殺人を犯す人間がその狂気を表面化させることがあるが……。普通の大人は自分のなかでそうした感情に折り合いをつけている。だが、それが破綻することがある」
世相や時代の流れですね。
「そうだ。世界恐慌に始まった経済と政治の混乱は、自分の周囲の世界に不安を反映して第二次世界大戦を呼び込んだ。人間の不安が集団的に広がると、自分の外に隠されていた狂気が見え始めるのだ。だが人間はそれをおのれの意識の反映だとは思わない。自分ではどうしようもない外界の出来事として、その狂気に怯えることになる」
大勢の人がそう思えば、世界の狂気はあっという間に伝染していきますね。
「そうなれば世界は狂気で構成されていると錯覚する。するとますます狂気を拒否する。自分の中に存在していたほんの小さな狂気を拒否することによって、それが途方もない化け物のように成長してしまうのだ。圧倒的な数の人間が命を失って、初めてその狂気に気づくのだよ」
とても恐ろしい構図です。それは決して70年前のことだけではなく、現在にも当てはまることですね。先ほどの小説の主人公である宮部という人物は、特攻の命令を拒否しました。フィクションですが、この行為は自分の中に存在する狂気に向き合ったことから生ずる勇気なのかもしれませんね。
「自分の周囲を取り囲む狂気の因子が、自分の中に存在していることを発見したものだけがその勇気を持てる。自分こそが世界を変えることができると確信できるのだよ。集団が持つパワーは強烈だ。それは大雨の直後の土石流のようなものだ。自分の中にある狂気に向き合えるものだけが、それから距離を置くことができる。そうすれば濁流に足を取られることはないであろう」
とてもよく理解できます。そうした意味では、たとてフィクションであっても、その意義を伝えていくことが大切だと確信しました。
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ひのっちさん、コメントありがとうございます♩
ブログにも少し書いていますが、私は幼い頃にアリに対して残酷なことをしたことがあります。
今思い出すと恐ろしくなります。全く遊びの延長であって、悪気はないのですけれどね(汗)
自分の中にある狂気から目を背けずに、それに向き合うことで客観的に接することができると思います。
まずは自分を知ることが、何よりも大切なことなのかもしれませんね。
こんにちわ、そらさん。
記事ありがとうございます。
そういうのは、カマキリとか蜘蛛とかですかね。
子供も無邪気なのは悟っているともいいますけど、判断と理性がないと悪気なくやってましたね。
間違いなく、狂気は内在してますね。
外側で戦争とか事件やらあるのは、
やる側やられる側、全部自分だって分かる気します。
同一化しなかったら、何者でもないですから。