今日のウィルバーくん 2.8
このコーナーは、昼間に書いていますので、予定が入っていると昨日のように更新しないこともあります。ご了承ください。
さて前回は微細(サトル)領域に移行したウィルバーの体験談を紹介しました。その意識がどのような状態なのか、彼は著作で様々な例を挙げています。例えば、ダンテが書いた『神曲』の天国篇の文章などは、まさにその微細世界をありのままに描いたものだと明言しています。
ところがその微細領域は、「魔術的」「幻覚的」な経験をする場所でもあります。過去に体験したことのない不思議な世界なので、そこである種の幻影を見ることがあります。光輝くブッダやイエスが降臨したりするわけです。
あぁ、ついに私は究極的な状態に到達した、と思い込むことになります。その領域での経験を、超──意識的な経験と混同する間違いを犯します。幸いウィルバーはチベット仏教等を学んでいましたので、そうした世界に取り込まれることはありませんでした。
瞑想を始めて微細領域に至るとき、「アポロ・コンプレックス」という問題が生じる、と紹介しました。次に来るのは、微細領域から元因(コーザル)領域に至る際にやってくる「ヴィシュヌ・コンプレックス」というものです。
どれだけ神々しい存在を見ても、それはただの経験にしか過ぎません。始まりがあり終わりがある限り、時間の世界の産物なのです。経験にはきりがありません。このことに関する、ウィルバーの言葉を見てみましょう。
〜以下抜粋。
ハンス・サックスが言うように、患者が、これではきりがない、と感じた時に精神分析は終わる。同じタイプの認識が、わたしを微細領域へ固定することから切り離した。これは「ヴィシュヌ・コンプレックス」と呼んでもいい。つまり微細な魂から元因的(コーザル)なスピリットへ進む際のコンプレックスである。
微細な経験があまりにも至福に満ち、畏怖に満ち、深遠なので、離れたくない、手放したくないと願う。そして永遠に、元型の栄光と父子の解放に浸っていたいと願うのである。「アポロ・コンプレックス」が初級の瞑想者の悩みであるなら、「ヴィシュヌ・コンプレックス」は、中級の瞑想者を襲う誘惑である。
しかしぼくは禅でも訓練を受けていた。そして、いかに皮相とはいえ、クリシュナムルティ、シャンカラ、ラマナ・マハリシ、聖ディオニシウス、エックハルトを読んでいたので、これらの人々が異口同音に、究極的な状態とは特定の経験ではないと言っているのを知っていた。すなわち究極の状態とは、たくさんある経験のなかの一つではなく、すべての経験の本性であり、そのグラウンドなのである。
〜以上抜粋。ケン・ウィルバー著『無関門』より。
究極的な経験とは、すべての経験の本性である。
とても深い言葉です。微細領域にいても経験をします。神のような存在を見てしまうわけです。でもそれは単なる経験でしかありません。
すべての経験の本性である、とはどういうことか?
ウィルバーはこう言っています。
「なぜなら、それはそれらすべてに先立ってあるからである。すなわち、わたしが何かを感じる前、何かをつかもうとする前、すでにそれはある。そのために「道」(タオ)は、知ること、あるいは知らないことを超えていると言われるのである。あるいは正しいか間違っているか、にも先立っているのである」
すべての経験に先立っているもの。それこそが究極的な経験だということですね。
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