『普通』であるための苦悩
黒猫のミューナは、干したての布団が大好き。今日は朝から晴天だったので、バルコニーに布団を干した。きっとその段階から彼は意識していたはず。
午前中の仕事を終えて、ランチのあとにいつものように映画を観ていた。リビングは床暖房が入っているので、猫にとっては最適の環境のはず。ところがミューナはそわそわと落ち着かない。普段なら爆睡している時間帯なのに、バルコニー越しのガラス戸の前に立って外を見つめている。
もちろん彼の視線の先にあるのは布団。その様子をボクがチラッと見ると、すぐに視線をこちらに向ける。布団を見る、そしてボクを見る。これをなんどもくり返す。つまりこう言いたいらしい。
「お父さん、もう午後ですよ。この布団をボチボチ入れませんか?」と言っている。まちがいない。
その証拠にボクの横まで駆け足でやってくると、おねだりが始まる。ボクのすぐとなりで、バルコニーとボクの顔を交互に見る。結局根負けして、DVDを一時停止にして布団を取り入れた。
無事にセットすると、いそいそと寝室に直行。もうこうなったら床暖房よりも、太陽の光を浴びた干したての布団がいいらしい。そのままま布団に潜り込んで、このブログを書き出す午後4時過ぎまで爆睡していた。なんてわがままな猫なんだろう。まぁ言いなりになる飼い主も飼い主だけれどねw
そんなミューナに邪魔された映画がこれ。
『普通の人々』(原題:Ordinary People)1980年のアメリカ映画。監督はロバート・レッドフォードで、この映画はアカデミーの作品賞、監督賞、助演男優賞、そして脚色賞の4部門を受賞している。
ところが恥ずかしながら、普通の人を見てもつまらんやんか、というアホな思い込みでまだ観ていなかった。ボクって、なんてバカなんだろう。
とんでもなく素晴らしい映画だった。ボクが今年観た映画では、まちがいなくトップ3に入る。この写真のシーンのときなんか、涙が止まらなかった。原作がいいのか、それとも俳優が素晴らしいのか。いやいや、脚本も監督の凄さも見過ごせない。とにかくすべてにおいて完璧な作品だった。
両親と男兄弟の普通の家族。ところがある日兄弟の乗ったヨットが遭難して、兄は命を落としてしまう。責任を感じた弟のコンラッドは心を病み、自殺未遂を起こす。
4ヶ月間入院したのち、自宅に戻ってコンラッドは高校にも復帰する。映画はそこから始まる。それまで普通の家族だったのに、兄の事故死は残された3人に大きな亀裂を生じさせる。だけど必死に『普通』を装うとする両親とコンラッド。
やがてこのままではまた自殺すると感じたコンラッドは、セラピーを受けることにする。そのセラピストがとても優秀で、コンラッドはいくつもの葛藤を乗り越えて、ようやく本来の自分を取り戻すようになる。だけど家族の亀裂は埋まらない。
ラストは家を出た母親を見送った父とコンラッドが、互いに抱き合うシーンで終わる。簡単に書けばこんなストーリーだけれど、とても奥の深い作品だった。この短いブログで書き尽くせるようなものじゃない。この映画の素晴らしさは、実際に観ないとわからないと思う。
とにかく俳優さんたちの演技が素晴らしすぎる。特にコンラッドを演じたティモシー・ハットンの演技には圧倒された。本当に心を病んでいるんじゃないだろうか、と思ってしまうほどの演技だった。演技する彼の指先や足のつま先までも、演出しているロバート・レッドフォードの熱い想いが込められているように感じた。
どんな人間も心に苦悩を抱えている。だけど『普通』であるように装っているだけ。他人にそう見せるために必死で生きている。そんなことを感じさせられた映画だった。
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