人生にナビは必要ない
また関東方面で雪が降ったらしい。前回の大雪に比べたらマシなようだけれど、スリップ事故等も起きている。慣れない雪の日に運転しなくちゃはいけない人は、マジで気苦労が多いことだろうと思う。
ボクが車を運転するのは、ここ数年では1年に1度くらいのペースになってしまった。4月のお花見で福井まで行くのが恒例になっていて、そのときにレンタカーを運転するくらい。
もっとも頻繁に運転をしていたのは、20代のときだろう。大学を出て父親の会社で仕事をしたけれど、毎日車を運転して現場まで向かっていた。京都市内はもちろん、滋賀や大阪方面にも行った。
学校を出たばかりのペーパードライバーのような運転技術だったけれど、通勤と仕事で1年の365日を運転するようになって、運転もうまくなったし、何よりも道をよく覚えた。カーナビなんて存在しない時代だから、道を身体で記憶するしかない。
そのおかげで、今でも京都市内ならタクシーの運転手さんに負けないくらい道を知っている。混雑の状況や、裏道だってわかる。まぁ、多少は新しい道も増えていると思うけれどね。
だけど神戸では運転することが減ったので、1年に1度レンタカーを運転するときは、とうとうカーナビに頼るようになった。兵庫県から福井県まで行くとなると、前もって道を調べるより、カーナビにしたがうほうが楽だからね。たしかに便利なものだと思う。
その代わりに、すっかり道を覚えなくなった。カーナビを使っていないころに走っていた道は、今でも余裕で走れる。だけどカーナビを使って移動している場所は、翌年になっても正確に道を覚えていないことが多い。だからますます、カーナビに依存してしまうんだよね。
でもこれが車の運転ではなく、人生にあてはめて考えると、ちょっとマズいと思う。
人間というのは、つい依存しやすくなる生き物だろう。楽なほう、楽なほうへと流れていく。スピリチャルに関心を持った人が、やたらガイドに会いたいと思うのは、心のどこかで楽をしたいと思っているから。ボクも以前はそうだった。
人生の岐路に立ったとき、どちらに進むべきかガイドが教えてくれたら助かる。つい、そんなことを考える。誤った道を選択しないように、指摘して欲しいと願ってしまう。つまりカーナビと同じように頼ってしまう。
その結果、どうなるかは明らかだよね。
人生という旅における道を、覚えなくなってしまう。それは自分の頭で考えなくなるから。他人やガイドに頼る癖がついて、自分で物事を決められなくなってしまう。それはある意味、とても不幸なことだと思う。
だってそんな人生、ちっとも面白くない。自分で考えて、ドキドキしながら踏み込む一歩にこそ人生の醍醐味がある。リスクを取らない人生なんて、退屈なだけ。
もちろん失敗もするだろうし、後悔にさいなまれることもあるだろう。だけど想像もしなかった喜びに出会えたり、人生を左右するような貴重な人間関係を持てるのも、迷いながらも暗闇に向かってジャンプしたからだと思う。
だから本来は、ガイドなんて必要ないんだよね。ボクがガイドなら、担当している人間を放置すると思う。だってそんな楽しみを、ボクに奪う権利はないと思うから。逆に言えば、ボクのガイドにも同じことを望む。ボクだけしか体験できない楽しみを、決して奪って欲しくない。
だから人生にナビなんて必要ない。思った道を進んで、まちがっていたら変更すればいいだけ。その苦労も悲しみも、そのあとにやってくる喜びのためかもしれない。そのほうが効果的だからね。
このブログを読んで、きっとボクのガイドはうなずいてくれていると思う。それでも死ぬまで近くにいてくれるのが、ガイドという存在の本質だろう。そうせずにはいられないんだと思うよw
『高羽そら作品リスト』を作りました。出版済みの作品を一覧していただけます。こちらからどうぞ。
関大生さん、コメントありがとうございます♪
いつもブログを読んでいただいて、ありがとうございます!
感動しました( ;∀;)