FFは悟りへの常道#38
『FFは悟りへの常道』は連載記事になっていますので、初めての方はリンクを順次さかのぼって#1の<目次>からお読みください。
前回の記事はこちらです。記事内容は改稿、訂正、加筆等が発生すると思いますので、それぞれの記事の冒頭に最新更新日を記載しています。
この記事の最新更新日:2024年3月15日(金)
・本日付で#1の記事を訂正しています。
第7章 FFが導く悟りへの道
・赦しがもたらすワンネス意識の統合
前章の最後で、『真の自由意志』の行使こそが、私たちが悟りへと至る必要不可欠な要素だと述べました。悟りへの道は様々です。師の導きによって道を学ぶ人がいれば、自己研鑽することでその境地へ至る人もいるでしょう。あるいは本人に想定外な出来事が降りかかったことで、意図せずに目覚める人もいると思います。
どんな方法を使うとしても、目的としている山の頂は同じです。そしてそれら全てに共通しているのが「赦し」だということです。
FFを通じて私たちは過去生のトラウマや今の人生の課題となっている観念を見つけ出すことができます。でもそれは「悟り」の扉の前に立っただけであり、扉を開くには鍵が必要です。その鍵となるのが「赦し」です。
私たちの観念、思考、感情、そして肉体に対する執着や思い込みは幻想であり、それらは本当の自分である「真我」ではないことを思い出すことによってワンネス意識との統合が実現します。それこそが私たちが目指す山の頂です。
そうした幻想を手放すためには、私たちは「赦し」を経験しなくてはいけません。この「赦し」が起きなければ、私たちは「自我」に刷り込まれた観念を手放すことができません。
さて、その「赦し」とはどのようなものでしょうか? まずは言葉から想像してみてください。
最もイメージしやすいのは、自分に対して暴言を吐いたり、理不尽な行動をとった人に対する想いです。他者の言動を赦すことは、まさに「赦し」の行為です。あるいは自分自身を赦す行為も含まれるでしょう。罪悪感や後悔に苛まれている自分を認めることも「赦し」の一つです。
でもこれらは「赦し」の一部でしかありません。悟りにおける「赦し」とはもっと広く、もっと深いものです。ではここで想像力を働かせてください。
あなたが女性だとして、複数の男性に集団でレイプされました。あなたはその男性たちを赦せますか?
あなたの子供や配偶者、あるいは家族をなぶり殺しにしたうえ、全く罪悪感を覚えていない犯人を赦せますか?
あなたのペットを捕まえて、虐待したうえに命を奪った人間を赦せますか?
このような例をあげればキリがありません。これらは実際に現実世界で起きていることであり、戦争や紛争を含めると「赦し」という言葉が虚しくなってしまいます。
私の意見を言いましょう。もし私がこんな出来事にあったら、絶対に相手を赦せません。おそらく復讐の鬼となってしまうでしょう。つまり今の私にとっても、この「赦し」の世界はまだまだはるか遠い山の頂なのです。
前章の最後で、「赦し」とは全ての価値判断や分別、決定を排除する行為だと述べました。この「全て」という言葉には、これらの悲惨な出来事も当然ながら含まれます。『真の自由意志』を行使して「赦し」を行うことで、私たちは振動数を上昇させることができます。
その結果として、私たちは3つ目の視点である「ワンネス意識」と統合します。だけど、そのハードルの高さを実感していただけのではないでしょうか?
よく言われている「引き寄せの法則」における個人的な願いでは振動数の上昇は起きません。それではすでに確定している現実世界を変更したディレクターズカット版を創造するのは無理です。
『真の自由意志』を行使して、このとてつもない壮大な「赦し」を実行することなしに、私たちは分離した「自我」から本来のワンネス世界に戻ることができないのです。
最終的に「ワンネス意識」と統合するために、私たちには観念の手放しが欠かせません。それは真の意味での「赦し」が必要になります。ところがあまりにも「赦し」という行為が壮大な世界観を持っているので、言葉で語ることが困難に思えてしまいます。
そんな「赦し」の境地を少しでも理解していただけるよう、前章でも引用した書籍の文章を紹介させてください。
『”それ”は在る ある御方と探究者の対話』ヘルメス・J・シャンブ著(ナチュラルスピリット』からの引用〜
<在る>が、
方法なき方法です。
やってくるものをただ観照し、
去るものもまたただ観照します。
それは何か対象があり、それを観察することではありません。
ただ全てが私であり、その全ての私を私が見ているのです。
一切全ての観念を放棄すること。
これが<赦し>であり、
<在る>なのです。
聖なる無視、
聖なる無関心により、
全てを赦して解放するのです。
何か思考が問題を作り出しても、
何か嫌な感情が沸き起こっても、
私は何も判断しません。
それにどんな意味も付与しません。
なぜなら、価値判断、分別することは、
それが実在するものだと認めることになるからです。
それは幻想でないと認めることになるからです。
それは我慢して堪えることではありません。
むしろ、
我慢して堪え、自分の中に抑圧してきた全てのものを解放させることなのです。
ただただ全てを赦すのです。
拒絶せず、否定せず、無理に受け入れようと努力するものでもありません。
もしそのような感覚があるなら、
それに対する観念があるのです。
だから否定しようとし、受け入れようと努力しているのです。
全ては観念を解放することです。
それが<在る>なのです。
〜『”それ”は在る ある御方と探究者の対話』ヘルメス・J・シャンブ著(ナチュラルスピリット)からの引用。
引用させていただいたこの文章は、無駄な言葉が極力排除されて「赦し」について語られています。それだけに心に伝わると同時に、自分の現状を考えて絶望する方が多いのではないでしょうか? これから目指そうとする山の頂が想像を遥かに超えた険しさなのに気づいてしまうからです。
先ほども書いたように、私も同じ気持ちです。悲しいかな、この世界では恐ろしい出来事が世界中で起きています。そして私たちはその恐怖に常に直面しています。ましてや自分の家族や友人がそんな恐ろしい出来事に巻き込まれた時、それらが「運命論」によって起きるべき必然だと受け入れられるでしょうか?
ところが「赦し」には物理世界で起きる全てが含まれます。人を殺すことに関して、当然ながら善悪の観念が働きます。でも悟りの扉の鍵を手にするためには、それら善悪の観念も幻想だと気づいて手放すことが求められます。それが「赦し」の境地であり、私たちがいつかは通過しなければいけない道なのです。
でも安心してください。通常の場合目覚めは少しずつ自我起きません。FFを通じて観念を導き出し、特定の観念について「赦し」が実行されることで目覚めを体験することがあります。いわゆる「一瞥体験」と呼ばれるもので、私も経験があります。
ところが一時的な目覚めは、すぐに元の「自由意志」の世界へ引き戻されます。なぜならまだまだ手放すべき観念が私たちの潜在意識に残されてしますし、「自我」が徹底してワンネス意識に近づくことを妨害してきます。
だから行きつ戻りつしながら、少しずつ振動数を上昇させていくしかありません。いきなり覚醒したように見える人がいるとすれば、その人は過去生でその段階にまで達していたということです。
だから山の頂を知って恐れたり、自分には無理だと諦める必要はありません。準備ができない限り、次の段階には進むことはできません。逆に言えば対応できることしか私たちの人生に起きません。だからFFを日常的に使うことで、私たちは目覚めを少しずつ広げ、定着させていくしかありません。
ここまでの話を理解できた人には、まもなくそうした目覚めが起きるはずです。現代は覚醒の時代ですから。だからFFは効果的ですが、それだけに振動数を減少させる誘惑も高まります。そのことについて少し触れておきましょう。
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