今日のウィルバーくん 1.7
今日も「目撃者」を見ていきましょう。何度も繰り返しトライしてこそ、その感覚をつかむことができます。昨日のブログでは「ワン・テイスト」という違った言葉で考察してみました。ウィルバーは様々な言い方をします。これ以外には「見者」(シーアー)という言葉も使っています。この「見者」という語句を使用した文章を抜粋します。
〜以下抜粋。
この深い、内なる「自己」は、世界を、そこから見ている。また、あなたの内面のすべての思考も見ている。この見者は、エゴを見る。身体を見る。自然世界を見る。すべては、この「見者」(シーアー)の前を通り過ぎていく。しかし「見者」それ自体を見ることはできない。あるいは見られることはない。もし何かを見るとしたら、それは単なる対象である。これらが対象である限りにおいて、まさにそれらは見者ではない。
こうして、あなたは探求を続ける。わたしとは誰か。この常に見てはいるが、けっしてそれ自身、見られることのない「見者」は誰か。あなたは意識を深くさかのぼり、すべての、見られるもの、見ることのできるものとの同一化から離れていく。
(中略)
あなたの眼の前を雲が通り過ぎていく。思考が通り過ぎていく。体の感覚が通り過ぎていく。そして、あなたはそのどれでもない。あなたは、そのなかですべての対象が来ては、去る、広大な自由なる「開け」である。あなたは開けである。大いなる「空」であり、そのなかで、すべての対象が来ては、去るのである。雲が来たりては去る。感覚が来たりては去る。あなたは、そのどれでもない。あなたは、広大な自由の感覚であり、「空」の感覚であり、「開け」である。そのなかで、すべての現象は、現れ、しばらくの間、とどまり、そして去っていくのである。
あなたは、この、すべての対象を目撃するこの「見者」が、実は広大な「空性」であることに気が付く。それは、ものではない。見たり、もったりすることのできる対象ではない。それは、広大な自由の感覚である。なぜなら、それ自体は、いかなる意味でも時間と対象と緊張と苦痛に満ちた客観的な世界に入ることはないからである。この純粋な「目撃者」は純粋な「空性」であって、そこにおいて、すべての現象は、現れ、しばらくの間、とどまり、そして去っていくのである。
〜以上抜粋。ケン・ウィルバー著『万物の歴史」より。
この「見者」という言葉が、「目撃者」や「ワン・テイスト」と同じ意味であることがわかっていただけたと思います。今のところはそれで十分です。この抜粋した文章ですべてが語り尽くされていますが、それを今までの既存の感覚で捉えることは困難です。
例えば、地球全体同時に眺めることができる大きさに自分がなったとします。そうすると地球上での出来事は全て見ることができます。ではその地球を見ている私という存在はどうなるのか。それを対象として認識した瞬間、その存在は「目撃者」ではなくなります。宇宙全体を見つめたとしても、その宇宙の外の存在を意識した途端、それは「見者」ではなくなります。
見るものが、見られるものとなった瞬間、それは「ワン・テイスト」ではないのです。そんな古い思考パターンを持ち続けている限り、宇宙がいくつあっても足りません。主体と客体が溶け合うことがなければ、「目撃者」を知ることができない。ウィルバーはそう語っています。
まずは言葉の意味を感じることから始めましょう。同じことを違う角度から眺めてみましょう。そうすれば、今年の年末には何かを感じ取っているかもしれませんよ。
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